「対等でいたいだけの話」
- kakuwamasato
- 1月23日
- 読了時間: 3分
最近、人の特性とか、病名とか、そういう言葉を目にする機会が増えた気がします。
便利な言葉だなと思う反面、どこか引っかかる感じもあって。
そんなことを考えながら仕事をしていたら、ふと昔の自分のことを思い出しました。
僕自身、昔から落ち着きがないというか、思いついたらすぐ動いてしまうタイプです。
今の時代だったら「ADHDっぽいですね」って言われてもおかしくないだろうな、
と思うこともあります。実際、そういうふうに見られた経験もあります。
ただ、それについて考えているうちにずっと引っかかっていることがありました。
誤解してほしくないのは、ADHDという特性や診断を否定したいわけじゃありません。
むしろ、自分の状態を自覚して工夫しながら向き合っている人のことは素直にすごいなと思っています。
「忘れやすいから、細かくメモを取る」
「集中が続かないから、環境を整える」
そうやって自分の特性を理解した上で前に進もうとする姿勢は、とても健全だと思います。
ただ一方で、どうしても苦手な考え方もあります。
「病気だからできなくて当たり前」
「仕方ないよね」で止まってしまうこと。
同じ状況でも向き合おうとする人とそこで止まる人とでは、
僕の中では天と地ほどの差があります。
仮に僕がADHDだったとしても、それで自分の向き合い方が変わるとは思っていません。
結局やることは、明日も店を開けて目の前のお客さんと向き合うだけ。
ラベルがついたからといって人生が急に楽になるわけでも、誰かが代わりにやってくれるわけでもない。
だから僕は、病気があるかないかよりその人が自分の人生をどう引き受けているかそこを見ています。
正直に言うと、「何も障害がないから、そんなことが言えるんだよ」そう思われることもあると思います。
でも、僕の身近には生まれつき体に病気を抱えている人や、厳しい状況をくぐり抜けてきた人たちがいます。
仕事を通しても、いろんな事情を抱えたお客さんと関わる機会があります。
そういう人たちを見ていていつも感じるのは、多くの人がそれを言い訳にも、武器にもせず、淡々と自分の生活を続けているということ。
特別なことを語らなくても、ちゃんと笑って、ちゃんと幸せそうにしている。
だから僕は、「病気だから不幸」という感覚をあまり持ったことがありません。
五体満足でもそうじゃなくても、環境が良くても悪くても、
マインドが合わなければ特別扱いはできないし、しない。
それは冷たいというより、同情で人を見るのがどうしても好きじゃないからです。
逆に言えば、不器用でも、時間がかかっても、ちゃんと向き合おうとしている人には自然と敬意を持てます。
これは正解の話でも、誰かを裁く話でもありません。
ただの、僕自身の距離感と価値観の話です。
人それぞれ事情も背景も違うからこそ、自分はどう向き合うのか。
それだけは誰にも代わってもらえない気がしています。
だから僕は、子どもに対しても基本は同じ目線。
「すごいね〜」って持ち上げるより、「すごいど、別に特別じゃないよ。大人はもっとできるしあたりまえだから」って。
意地悪だなと思いながらも、むしろ普通に張り合うこともある。笑
気づいたら、子どもともちゃんと同じ目線でぶつかってます。
それが優しさかどうかはわからないけど、少なくとも僕は、誰かを特別な存在にも、かわいそうな存在にもしたくない。
今日もそれぞれの場所で、それぞれの人生を生きてるだけ。
それでいいと思ってます。






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